2024.3.18
一言主神社
大和盆地の南部一帯は、かつてイヅモ(出雲)族という土着集団の営みがあった。ヤマト王権の勢力が及ぶ以前のことである。その一派は西の葛城山麓に拠点をおいたカモ族であるが(三輪山を望む桜井周辺はミワ族が支配)、5世紀頃滅ぼされた有力豪族である葛城氏との異同や由来は、資料の乏しい時代として霧の中にある。やがてヤマト王権に圧倒されたカモ族も衰弱して薄まっていくのだが、一部は平安遷都前のまだ草深い山城に移り住み、下鴨・上賀茂神社を祭祀したことは確からしい。言えることは、崇仏思想が浜辺の潮が満ちるよう浸透していく中、葛城のカモ族の末裔にあっては土俗の神“一言主”を永々と崇め続けたことである。
高台にある一言主神社の境内に佇むと、幻影として古代の炊煙立ち上る牧歌的農耕風景が映り、反骨的信仰の息吹が聞こえてきそうである。樹齢1500年という銀杏の老木はその語り部なのであろうか。
2024.1.10
12月、明石駅にほど近い堤防。渓流竿にシラサエビを撒餌と刺し餌にして、獲物を狙う。17時前から1時間あまりでガシラを中心にメバルが混じり、アイナメや小さなアコウを加えて20匹以上釣り上げ、持ち帰って美味しくいただいた。
R5.11.10
まほろば ―山辺の道―
記紀に登場する日本武尊(やまとたけるのみこと)は、命により熊襲や出雲を討ち東西を転戦したが、やがて病に臥し、死に臨んで望郷の念を“倭(やまと)は国のまほろば・・ ”と詠んだ。
まほろば・・・・・・
ある秋の日。大和盆地の東の丘陵を南北につなぐ“山辺の道”は、柿やみかんが溢れんばかりに実る心地よい香りに包まれていた。石上神宮や大神神社の壮麗な社殿、野に融けて点在する古跡、崇神、景行天皇などの大小ある陵墓の森、黄金色の稲穂に満ちた豊穣の田園、無人販売所にならぶ秋の味覚。白い雲が立つ丘を越えてこの古道は続く。遠く葛城、金剛の山波に囲まれた盆地に大和三山がかすんでいる。
天を仰げば神宿る三輪山からおろす風が出迎え、立ちどまれば路傍の草木は何かを語ろうとし、耳を澄ませば古代人の足音が聞こえてくるような。
幻想の気分として、拍動しだした倭国(日本)の心音が、史上最古の官道を通じて現代に伝わろうとしている。今、山辺の道で広がる理想郷といっていい光景が、伝説の英雄日本武尊の心に映ったのであろうか。
たしかに ”まほろば” がそこにあった。
R5.5.10
六甲山系の魅力
5月3日、初夏を思わせる好天。久しぶりの挑戦になる六甲山系の頂きを目指して自宅をでた。コロナ禍から解放された観光客の渦にもまれながら阪急三ノ宮で市営地下鉄に乗り換え、いくつかある登山口のひとつ新神戸駅前に立つ。山麓に張り付く新幹線のホームをくぐると、早速ウオーミングアップによろしい坂が出迎え、ほどなく水のとどろき音が近づくと、やがて天を仰ぐような瀑布が視界にあらわれた。布引の滝である。眼前の雄滝は滝壺まで43mあるというが、那智や華厳の滝にみるような垂直にたたきつける豪快な様ではない。岩肌の斜面に白い衣をひいたような水流は、風流で洗練された“布引”という呼称にふさわしい。周囲には藤原定家などいくつもの歌碑があり、古から王朝人から愛された名蹟だからかもしれない。
茶屋横の小径から展望の良い見晴台をすぎ、背後に神戸の街や海が見え隠れしながら、六甲の大山塊がめぐむ天然水の供給もと、布引貯水池に至る。
宝ヶ池公園に似た市民憩の遊歩道をすすみ、本格的なトレッキングコースの起点となる市ヶ原でいよいよ態勢をととのえねばならない。六甲山系は標高931mの六甲山頂を最高峰に、南側から望むと波打つように起伏しているが、毎年秋に、西は須磨からはじまり東は宝塚に至る全長約50kmの縦走コースを駆け抜けるレースはあまり知られていない。冒頭の“久しぶりの挑戦”とは、かつて縦走コースを幾度かチャレンジするも、持病の膝痛などで限界を思い知らされ、ようやく4回にわけて完走?できたこの山系の手ごわさを意識した。
さて今回は摩耶山頂付近の掬星台をめざすが、歩き慣れた天狗道ではなく健脚向きの黒岩尾根のルートを選んだ。事前の情報どおり、いきなりタフな急登が連続する。つづらの丸木階段を延々と踏み上がり、時には斜度30度を越える岩場をよじ登り、あるいは道を遮る倒木をのり越え、方向を失いかければ先行登山者の足跡をたよりに前を行く。
アップルウオッチのモニターでは心拍数がしばしば120/分を越え、激しい息遣いは喘鳴に近い。学生時代から”血ヘドを吐く”ほどの激しい運動を経験しているが、生理学的には過度の頻拍による心不全を起こしていたのではあるまいか。などと考え時折インターバルをおいて心臓を休ませる。高度が600mを過ぎたころからアップダウンのコースとなるが、下り斜面がかえって下肢に負担をかけるのだろう、地中から這い出た木の根に引っかかり足をもつらせる。が、難所を抜けた先には、ようやく周辺の空気に心を配るゆとりがうまれだす。風になびく木々のさざめきに混じり、ウグイスのすでに完成した美声や、キツツキだろうか、ドラミングのように木をつつく甲高い音が耳に余韻を残す。樹林帯のすきまからのぞく明石の市街地や北淡、播磨灘の遠望が素晴らしい。
左右が切り立った幅2mほどの尾根道を綱渡りの気分で越え、山笹に覆われた小径を進んで天狗道に合流した後、ほどなくゴールの掬星台にたどり着いた。ここは摩耶ビューライン(ケーブル、ロープウエイ)などを利用した家族連れやカップルも混じった多くの人々で賑わっている。それぞれ眼下にひろがる大阪湾や街並みの雄大な展望を眺めながら何を想うのだろう。
日本各地には都市と隣接した低山のハイキングコースはあるが、港の風情やエキゾチックな都市の輝きを併せ持ったこれほどアクセスの良い山域はあるだろうか。六甲山系への魅力は尽きることはない。
さてと、摩耶ビューラインで下界におり、三ノ宮の盛り場で旨いもんでもいただこう。
R5.3.10
腸閉塞
去る3月5日の夜間から翌朝にかけて、激しい腹痛、嘔吐にみまわれました。かつて経験した尿管結石の痛みに匹敵する、まさに七転八倒の苦悶が続き、次第に意識が朦朧として起立できない状態に陥っていきました。前日夕方に鯖の刺し身を食したことから、アニサキスと呼ばれる寄生虫による胃の症状と確信していましたが、一般に鎮痛剤は無効で内視鏡的に虫体を除去する以外に手立てはありません。そのため夜が明けるまで耐え、まず近隣の総合病院に問い合わせましたが受入られず、無理を承知で愛生会山科病院にお願いしところ、消化器内科の村上貴彬先生をはじめスタッフの皆様に迅速に対応していただけました。当初内視鏡検査だけをお願いするつもりでしたが(私自身が何度も胃アニサキスの内視鏡処置を行った経験があるので)、先生の勧めで実施した腹部CT検査で、予想外に胃や小腸が液体で充満、拡張し、腹膜炎を疑う所見が得られました。その後の内視鏡検査では胃内にアニサキスの虫体は観察されず、結局今回の病態は原因が定かでない腸閉塞と判断されました。経過から、頻度は少ないもののアニサキスが小腸まで到達した結果、炎症浮腫を惹起して閉塞したものと推測しています。その後輸液による脱水補正や、内視鏡で胃内容物を吸引したことによる減圧効果で、急速に痛みと倦怠感が軽減し、翌3月7日には経口摂取を開始。同日午後の診察を再開することができました。
今回お世話になった同院スタッフの方々をはじめ、的確な対処(腹部CTを実施していなければ病態を把握できなかったでしょう)をいただいた村上先生には、心より謝意と敬意を表します。いつ起こるかわからない地震のように、病は突然襲いかかります。当たり前ですが日頃より健康への気配りが大切ですね。
おことわり
医師不在のおいては、たとえ病状が安定していてもお薬を処方することはできません。
(代理の方に処方箋を発行する際は、医師がその内容を確認しています)
従ってかかりつけの皆様におかれましては、今後臨時休診の際は、可能な限り迅速に近隣医療機関受診の案内を掲示いたします。
ご不便をおかけしますが、ご理解のほど宜しくお願いいたします。
R4.10.13
青春18きっぷの旅 第2弾
青春18きっぷ(12050円)1枚の切符で5日分(正確に言うと5回分、同じ行程なら5人で1日使用も可能)使用できるので、残り2日分どうしようかと悩む。突如、倉敷行を思い立ち決行。
8月28日7時29分 播州赤穂行新快速に乗りこむ。山科駅のホームでも“姫路行”に交じって“播州赤穂行”とか“網干行”快速のアナウンスを耳にするがどんなところだろう。なじみの景色が続いて、芦屋を過ぎるころから他の都市にはない風景があらわれる。つまり街並みが六甲山系と海(港)にサンドイッチされて仲良く東西に延びるのだ(長崎や函館も、海、山、街の三点セットは共通するのだが)。中心街の三宮、おしゃれな異国情緒ある元町、神戸をすぎ、長田の中小工場の町並み眺めていると、舞台の幕が変わるように左手に松林と砂浜あらわれ、大きく広がる大阪湾が視界を占めた。泉州や淡路島の峰々がかすむ中、大型船舶がゆったりと航行する光景も束の間、舞子で明石海峡大橋の下を抜け去り、加古川、姫路と新快速は軽快なスプリンターのように疾走する。網干、竜野を過ぎ9時30分相生に到着、ここで山陽本線に乗り換えいざ岡山へ・・・。ここからが長く感じる区間、というのは明治時代の経路が継承されているのか、トンネルがほとんどなく山々を縫い、個々の集落を訪ね歩くような路線に感じる(ちなみに初期の東海道線では、東山を迂回するため京都をでて現在の奈良線稲荷駅を経由し、名神高速道路に沿って大津に至っていたが、後に京都-山科間にトンネルが開通して状況は一変した)。“これが青春18きっぷ、まあ急がずのんびり行きましょうや“と列車に諭された気がした。10時38分岡山着、1時間6分の行程ながら身体が痛くなりホーム上でしばしストレッチ、新幹線なら同じ区間が16分なのに!と愚痴は言わない。トランスファーして10時57分倉敷着。趣のある観光地として有名なこの街について、多く語る必要はない。美観地区の風情を守る誇り、美術館、病院をはじめ町のインフラ整備に情熱を注いだ大原孫三郎などの人物の輩出、天領であったことを思えば、京都、金沢に共通した住人の精神があるのかもしれない。ゆっくりとした良い時間を過ごせた。
さあ帰路は同じルートではつまらない。駅前でうどんをすすって14時36分倉敷出発、岡山で赤穂線(山陽本線より海より)を選んで路線をたどることにした。途中目にした伊部(いんべ)の駅前は、4年前に備前焼を求めて医師会旅行で訪れた集落だ。日常の食器として馴染みやすい陶器だが、当時いかにも土ものくさい信楽風の皿を手に入れ今でも頻用している。線路はまだまだ続く。横を新幹線がウインク?しながらぶっ飛ばしていった。15時50分日生(ひなせ)で下車、なぜ日生?20年ほど前に小豆島へフェリーで渡る際に利用した港町で、リゾートホテルが立ち並び、空が青く潮風が爽やかで、藍色の穏やかな海に浮かぶ島々の一画を切り取れば、ここはエーゲ海かと妄想した憧憬があったから。でも今回は違った。人がいない、歩いていない。港を一周したが道の駅風の商業施設は閑散とし、錆がかかったリゾート用らしきマンションには人の気配がない。
うつろな気分で日生を後にし、あの“播州赤穂“で乗り換え単線をコトコトと姫路に向かう。駅前広場で正面に姫路城が出迎えてくれ、姫路名物“喃風のどろ焼き”を挑戦しようと思ったが、またの機会にとっておこう。17時41分姫路発新快速、19時23分京都着。
京都-倉敷-京都 467㎞
追記) 残り1回は明石往復に利用
青春18きっぷ 12050円(5日分)2022年7月20日から9月10日まで有効
R4.9.30
青春18きっぷの旅
青春18きっぷはJRが毎年特定の期間に発売する切符で、全国の路線を普通、快速列車に限り乗り放題で利用できる“年齢制限のない”企画。2022年夏、還暦をすぎて初体験の“青春”に誘われ、3日間の行程で旅にでた。
1日目(8月11日)
山科7時51分発の新快速に乗り込み、さあ旅がはじまる。目指すは信州松本。高揚感と少々の不安が交錯しながら近江平野の米どころを走り抜ける。米原到着後ホーム向いの東海道線8時46分発普通に移り、醒ヶ井、関ヶ原を経て大垣に至る。ここで豊橋行快速に乗り換えるが、乗り鉄とおぼしき小太りの男性が良い座席を得ようとホームを走るはしる。岐阜の金華山を見上げながら濃尾平野を疾走し、名古屋からも中央線の快速で快適、快調に行程が進んで11時40分中津川に到着した。中津川は言わずと知れた中山道の主要な宿場町で、風情ある街並みが保全されている。駅前の蕎麦屋で軽く一杯の後、栗きんとん(時期が早く販売されていなかったが)で有名な老舗をめぐって土産を確保。地酒の試飲とかのんびりしていたら、おっと大変、14時15分発の松本行に遅れたら次は2時間半ほど普通がない(特急しなのはビュンビュン通過するのに!)。なんとか間に合い列車が動き出すといよいよ本格的木曽路の旅がはじまった。車窓に映る景色は、有名な木曽川の寝覚め床だけでなく、河川と山々に挟まれた田畑やかやぶき集落との調和と美観がよい。車両のカタッコトッ・・カタッコトッのBGMがさらに心地よい演出となる。時刻表を詳細にみると木曽福島始発の列車があり、どこかで途中下車できると判断。そこで気になっていた奈良井の宿を訪ねてみた。駅舎の左手には、木曽の山脚が迫る街道の両側に昔風の旅籠、陣屋の建築を残した施設が1㎞にわたって立ち並んでいる。かつて訪れた同じ中山道の妻籠宿以上に静寂感のある風情が出迎えてくれた。
1時間程滞在して木曽福島始発の列車に乗り込み、松本に17時47分に到着した。改札には現在市内で内科医院を営む大学時代の親友が出迎えてくれ、すぐにビヤガーデンで乾杯!40年以上前の京都での出来事などを語らい懐かしみながら夜が深けていった。
2日目(8月12日)
ホテルの窓の外は曇天模様、さあ今日はどの方向に進むか。当初は甲州から東京方面または富士山の西をえぐって走る身延線を経由して富士宮、沼津行を考えていた。が、東海関東地方は台風直撃するとの情報で、影響の少ない日本海側の糸魚川へ向かおうと思うが・・。前夜、友人は“大糸線は厳しいぞ“と忠告、理由は訊かず。かといって信越線で直江津まで行ったら3日間では帰り着かないかも。出たとこ勝負で9時20分発大糸線南小谷行に乗車。車内は満員、どうも私のような放浪旅の客が多い印象。おそらく蕎麦であろう花をつけた広大な畑の中を、列車は平野の北端に向かって小気味よくとばす。信濃大町を過ぎると木崎湖、青木湖を左にみながら深い山間にはいる。標高があがっていく感覚を寒さとして肌で感じだす。リュックを抱きかかえて腰、大腿の体温を保持、日焼け防止のアームカバーを防寒がわりに使用して耐えねばならない。白馬大池あたりから、急こう配、急カーブのポイントが連なり、列車は時速30-40㎞ほどで慎重に進んでいく。もはや登山鉄道で山越えする気分であり、友人の発した意味が少し理解できたようである。やがて長々とした自動音声のアナウンスとともに終点南小谷に11時26分到着。駅前は切り立った山肌が空を狭め、急流が谷を削り、かろうじて民家が数十件連なる寒村である。そこへ森の中から新宿発特急あずさ号(狩人はあずさ2号!)が悠然と姿を現し、大型トレーラーを10台以上連ねた行列のように重厚にゆっくりと入線してきた。そうこの駅はJR東日本の西端なのだ。一方向いのホームでは12時7分発糸魚川行2両編成ディーゼル列車が、グオングオングオンとエンジンを唸らせた後、ゆるゆると動き出した。
ここからはしばらく秘境のトロッコ列車気分である。架線はなく森の小径にただ鉄のレールが2本敷いてあるだけで、言わば鉄道版ケモノ道といっていい様相であり、ちょっとした倒木や増水でも運行は不可能に思えた。山峡のへりをどれだけコトコト走ったか、次第に山々が遠のき視界がひろがって空の明るさがましてくると、松本をでて4時間近い山岳地帯縦走の締めくくりとして糸魚川にたどり着いた、13時5分。ここは新潟県だ!
その晩は富山に泊まって旨いもんでも食おうかと情報収集していたが、甘かった。実は糸魚川から金沢まではJRに代わり“あいの風とやま鉄道”“IRいしかわ鉄道”という第三セクターが運営している。富山の改札を出ようとしたとき、駅員から乗車区間などを詰問されたが(国鉄時代の駅職員を思い出すくらい)、何を咎められているのかわからない。ようやくJRの青春18きっぷが無効と知り、すごすごと金沢行ホームへ戻った。深山をようやく通り抜け、富山湾に出会って風光の美しさに浸っていた気分が宙に浮いたような。気を取り直して金沢へ、16時10分着。東茶屋街を散策、浅野川の夕陽に心が癒され、金沢駅前の壮大なオブジェに圧倒された。
もう疲れたので特急サンダーバードで帰京しようかと迷ったが、結局小松まで足を運んで地元の人々でにぎわう鮨屋で一息、アパホテルが空いていたのでそこに泊まった。
3日目(8月13日)
小松という町は、近郊の安宅の関で関守富樫が義経、弁慶を見逃した歌舞伎演目“勧進帳”で名高いが、私にとってこの地は父方(私の祖母)の出どころと記憶している。朝、点在する社寺(戦国時代、いわば共和国を形作った加賀一向宗門徒の痕跡だろうか)を訪れ、お堂の裏から幼少の祖母がひょっこり現れるような幻想をいだき、道行く人々がどこか私と同じ血のしぶきを浴びているのかと感傷に浸ったが、遠い過去のことである。2024年に敦賀まで延伸する北陸新幹線の駅舎に、街の活性化を期待する横断幕がかかげられているが、さてどうだろう。開通すればJR在来線が第三セクターに移行するなど大幅な効率化が見込まれ、鉄道が交通手段として地域に溶け込めずに衰退していくのではないか。私にとっても北陸への鉄道旅は遠いものになってしまうかもしれない。小松9時1分発、加賀百万石の朝日に輝く田園地帯を疾走して芦原温泉、福井、鯖江と続き、武生で下車。越前といえば何はともあれ蕎麦屋を探す。観光ガイドセンターでいくつか候補をあげてもらった中で、昭和天皇が愛した“うるしや”を訪れた。開店直後で並ばずに入店でき、アンチークな調度品や精巧な欄間やふすま飾の座敷へ案内され、手入れされた坪庭を眺めながら越前おろし蕎麦を冷たくいただいた。
武生12時32分発、南条、今庄を通りあまりにも長い北陸トンネルをくぐって敦賀に到着。駅前はさほど賑わってはいないが、2年後にはどう変わっているだろうか。北陸新幹線の大阪への延伸ルートについて、私個人の意見としては既定の小浜、京都、京田辺ルートではなく、米原経由東海道新幹線乗り入れにして欲しかった。過密ダイヤがネックというがリニアができれば東西の輸送は分散されるだろうし、工期、工費を考えればなおさらではなかったか。敦賀はいつまで待たされるだろうかと老婆心を誘う。13時23分敦賀発、途中大きくルートが旋回するとは知らず、車窓の敦賀湾を琵琶湖と勘違いしてしまった。北國街道と平行した後、古代の貿易港である海津(マキノ)を経て高島の扇状地を過ぎると、右に比良山系が圧迫し、左に琵琶湖が雄大に広がる見慣れた景色。堅田、坂本、そして西大津のトンネルをでると“まもなく山科、山科に到着します”のアナウンス、14時53分山科着。帰ってきたあ! つづく。
3日間の行程距離
山科-松本 330㎞,
松本-小松 244km,
小松-山科 310㎞
R4.7.9
東山散歩と清水寺の夕照
私には心安らぐ散歩道がある。起点の地下鉄蹴上駅の地上付近は、北に視界が広がる。往来が激しい三条通りの向こうに遠く金戒光明寺や京都大学の建物群が並び、背後には山水画のように北山の峰々が重なっている。古来、京を目指して東海道を西へ向かった旅人は、この眺望に歓喜して駆け出したのではなかろうか。ウエスティン都ホテルを過ぎ三条通りから一筋南側の閑静な小径を進むと、粟田神社の門前をへて神宮道にであう。知恩院山門の急勾配な階段を昇り、豪壮な伽藍を誇る境内から木立に囲まれた鐘楼をへて、人影もまばらな法然ゆかりの吉水に至る。円山公園を下り、音楽堂、長楽館を左右にみて、往時の香りを残すねねの道をなにげなく通り過ぎる。風格ただよう竹内栖鳳ゆかりの館から二年坂三年坂を賑やかな観光客の群れに溶け込みつつ坂をあがると、清水寺の門前でこの贅沢な東山の散歩道は尽きる。
清水寺は、江戸時代に見物茶店も並んだという大阪の夕陽ケ丘とともに、古くから夕陽の名所としても知られる。正面には絢爛な桃山様式の西門が、仁王門と対をなして寺域の結界を固めているが、西門の南側には眺望豊かな空間がある。眼前は記念撮影の歓声や土産物店の掛け声で活気あふれ、視線をあげると京都市内はもとより広く右京や伏見、八幡の丘陵や山々を望み、はるか大阪のビル群がかすんでいる。時とともに陽は傾いて山の端にさしかかり、赤く燃えながら西山に果てようとする。すでに天空の蒼は徐々に深みを増し、陽の光を包んだ雲は黄色から深紅色を混じたグラデーションを演出する。天が作った芸術と言っていい無常の夕照と、薄暮の街のきらめきが美的景観を競っているのだろうか。西門は茜雲のかなた西方浄土を見つめ続けている。
山科医師会創設から50年、私が京都に住んで43年、山科に医療業務の拠点をもって30年が過ぎた。時間という激流にあらがうことはできないが、春夏秋冬うつろう彩りに心安らぎつつ、この散歩道と夕照が永遠に保全されることを願う。
R3.2.28
ある朝のいつもの寝起き、何か変だ。目をこすっても瞬きをしても左視野の妙な影がとれない。鏡で瞳孔周辺を確かめても汚れはない。似たような症状は若い頃からあったが、以前と違う黒っぽい複数の糸くずが、ボウフラのように踊って視界いっぱいに旋回している。あまり気にせず仕事に向かおうと、照明のない玄関で後ろを振り返った瞬間、稲妻のような閃光が襲った。何だろう、疲れか・・・。
時間の経過とともに、左視野が淡いベールに包まれたようにかすみ、左下方に斑状の暗い領域が現れた。ただならぬ事態に不安となり、かかりつけの眼科を受診。“硝子体剥離かな”とつぶやかれて眼底鏡検査を行った後“網膜裂孔があり剥離の可能性がある”と告げられた。緊張感と切迫感の空気が漂い、夕刻ではあったが緊急処置のできる医療機関に慌ただしくかけあっていただいた。紹介先で軽度の網膜剥離と診断され、まさしく瞬く間に眼底のレーザー治療を受けその日を終えた。
“硝子体剥離”とは、60歳前後から誰でも発症しうる一種の加齢現象らしい。視野にゴミのような破片が漂う“飛蚊症”、稲妻のような閃光“光視症”(剥離の際に網膜が引っ張られて生じる。頭をぶつけて目に火花が散るのも同じ原理)も、硝子体剥離で説明できる。わたしの場合は硝子体剥離の際に、“裂孔”つまり孔ができて、そこから水が網膜の裏に潜り込み、シールが剥がれるように剥離が起こってしまった。
その後飛蚊症は軽減し、視野に違和感は残存するものの、幸いにも手術は回避できた。放置すれば左目が失明する危険があったことを思えば、迅速で適切にご対応頂いた医療機関各位には深い感謝の意をおぼえる。
さて医療機関に訪れる皆さんが、たとえ些細であっても“いつもと違うなにか“を訴えた際、医療人は嗅覚のような原始的思考法で、最悪の病態を脳の端に置かねばならない(例えば胸が重いなら狭心症、原因のわからない発熱が続くなら結核や白血病など)。多彩な情報整理を要する作業は容易ではないが、身体を診る根幹的行程である。ましてや症状が出現する前ではあらゆる手段でもってしても、病気を予知・予防することには限界がある。よって特に合併症を抑制することが治療目標である糖尿病を患う方々は、眼底だけでなく心臓や腎臓などあらゆる器官の障害がおこることを念頭において、日々の管理を心がけねばならない。
今回患った病も、現代文明の産物である高度な医療で幸いにも救済されたわけだが、自己の健康管理の一貫として人間ドッグを含む定期検査の意義を改めて思い知らされた。それと同時に年齢を重ねるにつれ体調を崩すと、回復が遅れるだけでなく、時に病と付き合わざるを得ない状況が生まれる事を認識するに至った。
以上、日頃から皆さんに勧めている定期診察・検査の重要性を、自身の経験をもって強調したい。
R3.1.5
還暦に想う
往古、唐代の詩人王維は、河西回廊を西域に旅立つ友人へ、柳の枝を輪に結び、無事に戻ることを念じて見送ったという。“還(環)”とよばれた。茫々たる僻遠の地からの帰還は容易ならざるものと、“・・・西の方、陽関を出づれば、故人無からん”と詠んだのであろう。“還”は無論、かえる、かえすという意味から、還俗、帰還、償還などの慣用句で親しまれている。環、転、巡、回、輪、戻なども同じ水位で頻用されているとすれば、仏法が説くよう万物の事象はすべからく関連しあい、轟々と廻転しているような気がする。巡り巡ってとか、金は天下の回り物とかいうではないか。
さて還暦である。
60年で十干十二支が一周するまで、めでたくも長生きしたと祝う。赤子の胸中として赤い頭巾にチャンチャンコを羽織り、新しい門出のように振舞って新鮮さと昂揚感を味わう。 今年、小生は5回目の年男として還暦を迎える。長い平坦な道のりを、いくつかの岐路に迷い、多難な関所をくぐりつつも、総じて日常という回転テーブルの上を何百回、何千回もまわって過ごしてきた。多少なりとも社会に貢献したつもりだが、誇れるエピソードなど短編小説3本分もあるかどうか。過去を振り返って郷愁にひたる理由はない。 思えばほんの1,2世紀前までは、人の寿命など長くて60歳ほどで、この世に生を受けた直後から死が隣り合わせということが、当然の世であった。人間80年いや90年の時代を迎えようとする当節、私どもは発達した医療や衛生環境を当たり前のように享受し、いわば文明の溶液に浸って生かせて頂いているが、この観念を自覚することはあるまい。我に還ってそのことを深く胸に刻みむとき、人に生まれて60年、あとは火と風に帰するまで、与えられた人生を何かに貢献できれば申し分なかろう。が、凡庸な小生には、その気概が足りぬ。なぜなら、先輩方がいう、60歳は健康維持の分水嶺なのか、気づかぬうちに心身の衰えが忍び寄り、時には生活の質を左右する病魔にも襲われかねないとの言葉が、現実として身にしみるようになったから。
ともかくも崇高な理想など描かず、虚栄にはしらず、せめて他者に迷惑をかけず、蓄積した経験を少しでも後進に示し、熟成されていくウイスキーのように、当面は樽に鎮まっておくことにする。いつか人々を魅了する芳醇な香りと深い味わいとなるために。
R2.9.5
木津川サイクリングロード
皆さん、桂川、木津川沿いに全長45kmの自転車歩行者専用道路があることをご存じですか。嵐山を起点に伏見、八幡付近を経由して、京田辺から精華町を通り、奈良との境にある木津町を結びます。正確には“京都八幡木津自転車道線”と呼ばれ京都府が管理しています。
気候のよい時期の休日には、自慢の自転車で疾走する人々で賑わいます。全ルートを通じて交通信号は2か所しかなく、道幅は3メートル前後、起伏がなく見通しは良好で、安全で快適に走行できます。
京都市内の東部から出発する私の場合は、御池通付近から鴨川河川敷を南下し、名神高速京都南インター付近で、このサイクリングロードに合流します。幕末鳥羽伏見の戦いで、戦端の火ぶたがきられた小枝橋を右手に見ながら、三川合流部(宇治川、桂川、木津川)にある桜並木で有名な背割堤まで駆け抜けます。
サイクリストのオアシスとも言える“さくらであい館”で休息したのち、比叡山や音羽山をはるかに望みながら木津川の左岸を進んでいきます。増水時に橋桁が流される通称“流れ橋”を左に通過し、茶畑が続く堰堤を走り続け、近鉄京都線の鉄橋をくぐると、一休寺のある京田辺の町が見えてきます。精華町に入ると、さえぎる物がないのどかな田園風景の中を、一本のロードが遠くまで延びていきます。地面を蹴るタイヤの音と風を切る音以外、耳には入りません。
振り向くといつのまにか愛宕山が小さくかすみ、前方に大きな泉大橋が目に入ると終点ポイントに到着です。
平均時速20キロを維持していれば、休憩をとりながら片道3時間足らずの行程です。ある程度軽量で長距離走行に適した自転車が必要ですが、体力に自信のある方は、無理のないように一度お出かけになってはいかがでしょうか。
H29.11.15
東福寺の伽藍
荒天続きの週末を償う様なやわらかい陽射しの11月5日,京都総合観光案内所の脇野博昭氏の引率で,臨済宗東福寺界隈を散策した.
最初に訪れた法性寺は,間口の狭い民家のような小寺ながら,藤原氏の氏寺であった平安時代の創建当初は,奈良の興福寺と並ぶ伽藍を誇ったという.禅の潮流が盛んとなる鎌倉時代以降,その寺領を継いだ東福寺が今に続いている.この日は京都一円で催されていた非公開文化財特別公開として,初々しい担当女性の解説に頷きながら,仏像彫刻では珍しい27面様式の千手観音菩薩を拝む幸運に恵まれた.慈悲深く衆生に救済を差し伸べる千手と艶やかな尊顔が,来訪者を魅了したであろう.
栗棘庵で昼食後,本坊に向かう途中に観光PR画像で有名な臥雲橋にさしかかった.橋廊の合間からの眺望は,深まりゆく秋に色褪せていく緑葉と階調豊かな紅葉がとりなす自然美に加え,樹間に隠れる通天橋が景観を引き締めている.水墨画にしても嵐峡にかかる渡月橋や法輪寺の塔もそうだが,山水に人工物を加える構図が,なにか日本的美意識を喚起するのではないだろうか.
僧の住まいである方丈に入る.昭和の造園家,重森三鈴が再興した四面の庭は,釈迦にちなんで“八相の庭”と呼ばれる.南は禅の精神が込められた質朴な枯山水,北や東にはモダンな雰囲気の市松模様や北斗七星に見立てた石柱など,多彩な空間を演出している.
山内は広い.臥雲橋とともに東福寺三名橋の通天橋,偃月橋を通って,それぞれ開山堂(楼閣は伝衣閣といい金閣,銀閣などと京の五閣と称される),即宗院(薩摩藩士の菩提寺)を廻った.
南の一角には見上げるような建造物である三門,仏堂が,重量感の造形で威を保っている.これぞ東福寺が俗に“伽藍づら”と言われる所以である.
東司(僧の便所だった室町時代の遺構)を右に見ながら六波羅門をぬけ,閑静な宅地に囲まれた光明院を訪れた.雲にみたてた築山,その上に位置する茶室の壁面に表現された月,そして枯山水の静寂で凛とした佇まいが禅風を語っている.陽の傾きとともに移ろう書院の軒からの眺めは,日本人の心の底に眠る文化意識を呼び覚ますのかもしれない.
秋の東福寺,文化ハイキングに相応しい実りある一日であった.
H29.7.10
音羽山の景観
朝,まばゆい光が射し込む診察室の窓を大きく開放する.枠いっぱいに広がる山麓と街の景色を眺めるために.とりわけ雄大な音羽山とは,互いに意識しているような気がする.
春風がそよぐ季節,山桜の紅色が点在する若々しい新緑が,群青色の空と色彩を競演する.雷鳴とどろく雨後,嵐気の降りる山肌が幽谷の佇まいに淡くけむる.山吹色を交えた紅葉に染まる森が,夕照に刻々と燃え上がる. 極寒の冬,雪の衣を薄くまとった頂が無垢に輝いている.なんという美的景観か.四季折々の彩りを映すこの山は,窓枠を絵画の額縁にしてくれるのかもしれない.
往古,歌枕に詠まれた.
“音羽山 今朝越え来れば ほととぎす 梢はるかに 今ぞ鳴くなる”
古今和歌集 紀友則
“山科の 音羽の山の 音にだに 人の知るべく わがこひめかも”
古今和歌集 よみ人しらず
逢坂関を越えて往来する人々が,貴賎を問わずこの山容を愛でたのであろうか.
地図でみると音羽山は北に逢坂山と繋がり,南へ支峰の牛尾山とともに醍醐山に続き,近江と山城を分けている.鉄塔が目立つ山頂は,山科のどこからでも望めるだけでなく,嵐山の渡月橋からも岩清水八幡宮からも,野洲,蒲生の野を疾走する新幹線の車窓からも視認することができる.松尾山や稲荷山のように信仰対象にはならずとも,古来より人々に溶け込んだ風景として, 593メートルの標高(山科区の最高峰)ながらランドマーク的な役割を果たしてきた事は想像に難くない.建物が林立するこの時世においては,はたして人々はこの山をどれほど意識することがあるだろうか.
あれこれ思いを馳せていると,音羽山に登ってみたくなった.山頂を目指すには,逢坂山,牛尾観音か石山寺を通るルートが一般的である.京阪大谷駅から鰻を仕込む“かねよ”の香りに誘われつつ,国道脇の山脚に設置された簡易階段をから樹間に入ると,行交う車の音も次第に遠ざかっていく.つづら折の小径を越え,勾配の緩やかな道のりに油断していると,20階建のビルでも上るのかという急段にでくわす.心臓破りの斜面を喘ぎながら一歩一歩踏みしめていく.やがて山際にたつ雲の合間に琵琶湖を左に見下ろし,風通しの良い樹林を進むと,にわかに周囲が明るく広がった.音羽山の山頂である.
文字通り絶景がひろがり,180度遮るものがないと言ってよい.南西には淀方面から北摂,六甲山系の山塊が霞み,愛宕山の向こうに丹波の峰々が起伏している.北に視線を移すと,比叡山,蓬莱山が連なり,大河のように伸びる琵琶湖をはさんで沖島の右に近江平野が広がって,遠く伊吹山が威容を誇っている.眼前には山科の盆地が,前後に圧縮されて窮屈に収まり,東山連山の向こうに京都タワーをはじめ埃っぽく霞む京都市街や御所,二条城の緑が遠望できる.短い素麺程度の新幹線が,足元の音羽山トンネルに向かってせっせと走っている.双眼鏡で山科市街を凝視すると,なんと診察室の窓がみてとれるではないか.日常の自分に向かって思わず手を振ってしまった.
目立った樹木がない山頂に,傘をさした貴婦人ように枝を優雅になびかせる松の木が孤立している.常世に暮らす人々を,いつの頃から見つめてきたのであろうか.時間はゆっくりと過ぎていく.
さあ今日も診察室の窓を大きく開放し,山頂の松の木に挨拶する.
1000年前も1000年後も不動であろう山麓の眺めを期待して.
音羽山頂から西を望む(拡大してみて下さい)
当院ビル 黄色の矢印
H28.8.10
武奈ヶ岳
盛夏のある休日,日本二百名山のひとつ武奈ヶ岳を訪れる機会を得た.地質学的には地塁と呼ばれる屏風の様な湖西の山並みは,比叡山から北に蓬莱山を南端とする比良山系に連なっている.武奈ヶ岳は北の奥比良に位置する.JR比良駅から乗り継いだバスに別れを告げ,ゆるやかな登山道を軽快に歩く.針葉樹林の黒ずんだ木立を抜けると,谷を割って流れる渓流のせせらぎや濃淡豊かな緑の広葉樹林に迎えられた.天に向かって湧き上がる夏の雲が,霞んだ青空の一角を占めている.時折進路を確かめながら急峻な岩肌をよじ登り,倒木の下をくぐって涸れ沢を登り切ると,尾根のはるか先に目指す山頂が見えた.溢れる汗を拭いもせず,息をきらしながらようやく標高1214m武奈ヶ岳山頂に到達した.高い樹木がほとんど生育しない頂上付近の山腹は,猛烈な風雪の厳しさを物語っている.全方位に広がる視野に,琵琶湖が河川のように細長く横たわり,賑わう琵琶湖バレイを抱える蓬莱山の向こうに比叡山が小さく鎮まっている.爽やかで雄大でなんと贅沢な景観であろう.きっと訪れた登山者とこの気分を共有できたに違いない.眼下にスプーンで削り取られたような山肌がみえる.比良スキー場の跡地らしい.高度経済成長期,麓からロープウエイで結ばれ,京阪神のスキーヤーで賑わったというが,そう言えば小学校低学年の頃,この名のスキー場の緩斜面ですべってころんだ微かな記憶がある.そのスキー場跡地を横目に,懸命に下山を続ける.下っても降りても,まだ先がある.あらためて深い比良山系の洗礼を実感しつつ,悲鳴をあげる膝や筋痛に耐えて麓にたどりついた.6時間半の行程で,一体どれだけのカロリーを消費できたのだろう.おそらく一膳のカツ丼くらいではなかろうか.などと帰りの電車内でぼんやり考えながら,名山が迎えてくれた心に残る一日を振り返った.
H28.6.12
ホールインワン達成
太平洋クラブ 六甲コース 13番ホール(161ヤード ピンはセンター奥8ヤード) 7番アイアン 高校同期生のコンペで
H27.8.10
須磨界隈
神戸中心街の西方,六甲連山が大阪湾にせまり,山脚が明石海峡にいよいよ落ちようとする一帯に須磨がおさまっている.上古より東西往来の要衝でありながら,海路陸路も巾着のように狭い地勢が,この土地柄を印象づけている.訪れた須磨寺は,平安時代前期に起源を遡る真言宗の古刹で,穏やかな海と激動の変遷を見つめてきた.広い境内には年輪を重ねた樹林が点在し,開放的で秀麗な堂塔伽藍が配置され,その随所に悠久の歴史が語られている.周辺は栄枯盛衰,世の無常を吟じた平家物語の舞台として名高い.清盛が打ち立てた蜃気楼のごとき福原の都,平家が滅亡する序曲となった一ノ谷の古戦場,哀話で知られる敦盛の塚も,この寺域の高台から見下ろす視界に凝縮されている.時が下って南北朝時代の前夜,湊川で壮絶な戦を展開した楠木正成が,足利尊氏と対峙した場でもある.境内にたたずむと,蝉の声はしみ入り,盛夏の空は群青色に濃く,山野の緑はどこまでも深い.遠く紀伊山地を背後にかかえて望む大阪湾は,三方を山に囲まれた窪地に住まう山科人に,広く大きい海への憧憬心をあおったことだろう.時を経てもこの景観は不動に違いない.
須磨の海岸へおりた.夏休み最初の休日とあって家族連れで賑わう須磨海浜水族園の中へ,一行は吸い込まれ拡散していった.私はといえば,炎天下をうろつく勇気もなく,冷えた水槽の迷路に身を寄せて涼しげに泳ぐ魚を眺めていたが,せっかくだから思い切って海辺にでてみた.やはり暑い.焼き魚のようにじりじりと肌が焦げ,身体の水分が喪失してミイラや一夜干しになる気分を味わう.が,微かな潮の香を含んだ風が毛穴を開くような心地よさを誘い,京都とは猛暑の質が異なる感覚をもたらす.ビーチはカラフルなパラソルで華やぎ,水面は射光で宝石を散りばめたようである.黄色っぽい空気の向こうに,半島のような淡路島北端が明石海峡大橋で本土に繫がれている.広々とした光景が,心だけは爽やかにしているのだろう.園内に戻ると熱気と歓声に包まれたイルカショーは,観覧者で溢れて立ち入る隙がない.世界の諸事情の波で,イルカとのふれあいが,将来この子たちの霞んだ夢物語にならないか,老婆心として余計な心配をした.
H26.10.27
厚労省は,過日公表した2014年版の厚生労働白書に,健康寿命の延伸をテーマに掲げた.健康寿命とは,健康上の理由で日常生活が制限されず,家族などの手を借りることなく暮らせる年数をいう.日本における2010年の時点で健康寿命は,男性70.42歳,女性73.52歳と世界最高水準であるが,平均寿命の男性79.55歳,女性86.30歳と比較すると,10歳前後の乖離が維持されている.介護や医療への依存度が高まるこの期間を短縮する重要性について,ここで詳説する必要はなかろう.健康寿命を延ばして明るく暮らせる長寿は,誰もが願うことである.
健康寿命延伸の恩恵を受けた元気な高齢者が増加すれば,深刻化する日本の労働人口減少を補填する展望が生まれよう.その筋道として,個々の技能や体力に応じた職種の割り当てや,企業の経営雇用事情も加味した定年引き上げの議論など,きめの細かい配慮が求められる.
視点を変えれば,被介護者が増えていく今後,慢性的に不足している介護職域を,世代の近い“若手“高齢者が担当することは合理的,現実的発想ではないだろうか. 健康寿命を延ばすためには,現役世代の頃から生活習慣病を是正し,合併症による活動制限を阻止することが肝要である.そのために自治体や企業は,健診受診率向上を目指すだけでなく,健康維持対策を積極的に取り込む実行性が喫緊である.ある自治体では,歩数計を貸与して“毎日1万歩運動”に取り組んだり, “60歳代は高齢者と言わない都市”宣言でもって,高齢者の意識改革を促進するユニークな着想もある.医療の立場では,地域に根付いた医療,介護を担うかかりつけ医が,健康管理指導や疾病の早期発見治療に重要な役割を果たしている.この機能を損なわないために,皆保健制度が維持され,フリーアクセスが保証されねばならない.
迫る超高齢化社会でも揺るぎない社会保障を維持できるか.健康寿命の延伸が鍵になるといえよう.
H26.9.10
湖南三山
8月3日の日曜日.空を広く覆う曇が連日のギラギラした太陽の光を遮り,多少しのぎやすさを覚える.降雨にならぬことを願いつつ,栗東インターをおりたバスは旧東海道を右手に野洲川右岸をさかのぼり,湖南市の丘陵地に至った.湖南三山とは聞きなれぬ呼称である.善水寺,長寿寺,常楽寺の総称で,湖南市の発足に伴い湖東三山の人気にあやかって命名されたそうである.なるほどささやかな脚光が,文化財や伝統保全の一助となればそれでよい.各々の古刹は管理事情があるものの,優劣つけ難い往古の佇まいを残している.殊さら長寿寺は,手入れの行き届いた境内,住職の解説の巧みさやもてなしに,日本の心を肌で感じることができたのではないか.大谷観光農園で,昨年と同じく印象に残った光景がある.バーベキュー,ぶどう狩り,スイカ割に子供たちが歓声を上げて走り回り,若いお父さんやお母さんは,額に汗を浮かべながらベテラン役員さんの仕事を補助する.人的交流が乏しい都市部の生活において,何が求められるか.超高齢化社会を迎える我が国のありようを考えながら,微笑みをもって夏の一日を終えた.
H26.5.15
忍び寄る高齢化社会の足音がきこえる.総務省の公表では,2013年10月時点で,65歳以上の高齢者人口が全体の25%を超え,総人口は3年連続減少したという. 平均寿命が漸増している一方,健康寿命の伸びは鈍化傾向がみられ,予測では2030年に高齢者人口は全体の33%に達し,現役世代が1.5人で高齢者1人をカバーすることになる.医療や介護などの社会保障費は膨張の一途をたどり,このままでは制度崩壊の危機に直面するであろう.いつまでも世界トップクラスの長寿国と誇っていられようか.言うまでもなく,高齢者向け住宅の整備や地域での互助促進,在宅医療や訪問看護の充実など,取り組むべき対策は待ったなしである.だがもっと前向きな思考法はないか.
高齢者は茫漠と年を重ねた方々ではない.日本の繁栄を築き,支えてきた先人であり,かけがえのない知的財産を秘めた存在である.彼らは後進に道を譲り,沈黙しつつも,社会全体,地域,家庭などあらゆる領域で,貢献する術を知っている.労働人口減少の補填,日本の卓越した技術開発の精神や美的文化の継承のために,もうひと働きしていただきたい.それには定年の引き上げをはじめ,自らの経験を活かしたボランティアや世代間交流の活性化など,参画しやすい仕組みの構築が求められる.
他方,彼らの心象に立ち入れば,積み重なる病は気力,体力ともに奪い,やがて訪れる死に対する不安が影を落とさざるをえない.病と向き合う姿勢,終末期のありようを,医療界,宗教界,財界やマスコミが連関して討論すべきである.むろん非高齢者が無関心ではいられまい.
また“死”という響きは,タブーの意識や敗北感の磁気をおびて,医療現場を覆ってきた. 今後多死社会の到来が予想される中,人格の尊厳が欠如した救命,延命があってはならない.“いかに死ぬか”を早い段階で話し合う環境が,整えられるべきではないか.
皆,命が続くかぎりやがて高齢者になる.少子化問題や女性の社会進出と包括的,巨視的に議論しながらも,個々の近未来として真剣に考える姿勢が問われる.
H25.12.3
色彩の中の実り
日頃の精進の賜であろうか,好天に恵まれたリクレーションが師走にずれ込みながらも開催された.バスは奈良へ通じる国道24号を南下し,木津川を右に望みながら山手に進路をとり,細い生活道を運転手さんが巧みに対向車をかわしながら目的地に到着した.訪れた井手町のみどり農園は,茶畑越しに山城大橋を見下ろす山麓に位置する.やわらかな初冬の陽光に迎えられた清々しい朝の空気.鮮やかな橙色の実で飾るかきの木は,冬枯れを迎える野山のアクセントとして輝いている. 青空と調和する山腹の紅葉はピークを過ぎようとしているものの,自然が織りなす色彩のグラデーションに皆さんも酔っておられたことだろう.もぎ取った小粒のみかんは爽やかな甘みがあり,かきも食感と香りがよい.つい食べ過ぎてしまった.栗林に沿った小径を下ると,逆光で黄金色にきらめくもみじに出迎えられ,さらに進むと細やかな川のほとりの野外バーベキュー場に至った.心地よい風と明るい雰囲気の中で,ここでも食がすすむ.農園のご厚意でもちつきが用意され,しばし町内の家族的な団欒を楽しむことができたようである.ここは山科から近い.機会があれば手軽なレジャーとして利用してみたい.
毎度ながら,どうやって魅力的な企画が組めるのかと思案すれば,役員様の献身的な姿にたどり着く. ともかくも素敵な一日をありがとうございました.
H25.7.5
去りゆく人のご挨拶
忘れ得ぬ症例ですかぁ.勤務医時代を通じてこれまでに出会った症例には,喜びや悲しみがもつれ合って心を揺さぶるドラマがあったことは間違いないですね.臨床の現場は,感情を昂ぶらせる小劇場と言い換えてもよいのでしょう. 忘れ得ぬ症例が,私の胸いっぱいに溢れています.その中で気づいたことにふれてみたいと思います.
晩秋のある日,いつも無表情のKさんが,診察室で微笑みながら“ありがとうございました”を繰り返すのです.アルツハイマー病が進行して疎外感が深まる中,スタッフから来院の度に温かく接してもらった喜びを,精一杯伝えたかったのでしょう.翌日,Kさんが不慮の事故で亡くなれたとの一報がありました.私は動揺しつつも,昨日のあらたまったお礼の意味は何だったのだろうと首を捻っておりました.
末期癌で自宅療養されていたSさんのことです.私の母親とほぼ同じ歳で,お元気な頃は“先生,風邪ひかないようにね,無理はダメよ”と息子のように気遣って頂きました.桜が散りゆく晴れた日の午後,久しぶりに山科周辺をサイクリングしていて,たまたまSさん宅の前を通過しました.せっかくだから顔でもみせようかと訪問したところ,以前よりお元気そうでよく話されるのですね.その時も“ありがとう”の連続なのです.笑顔で握手をして,お宅をあとにしました.翌朝,家族に見守られながら静かに息を引きとられたとの連絡に,私は驚きませんでした.人生お疲れ様でしたと,心の中でSさんに語りかけました.そういえば私の父は重症肺炎によって意識レベルが低下していく中,なぜか亡くなる前日だけは,穏やかな表情でベッドサイドの私を見つめていましたし,妻の祖母に至っては,病室で皆さんに丁重な辞世の言葉をかけた直後に臨終を迎えました.ドラマのワンシーンのようですね.
こんなこともありました.研修医時代に担当していた末期癌のNさんが,死の数日前,雷鳴とどろき閃光走る深夜の暗い病室で,一枚の宝くじを私に手渡したのです.後日発表された番号を確認すると,なんと下4桁がそろって数千円の賞金が当選しているではありませんか.さすがにこの時は少々背筋が寒くなりました.
この世を去りゆく人には,何か超常的な電流が湧き上がるのでしょうか.渾身の力を振り絞って,愛しい家族や世話になった方々に,最期の挨拶をかわすのではないかと.そして命のランプを消して,自身の物語を完結するのでしょう.
H24.6.5
山科と私
私が山科をはじめて訪れたのは1980年(昭和55年)で,山科医師会設立8年目の頃になる.夏のある日,膝の診察目的に愛生会病院を受診したのだが,その前後の記憶が乏しい.近隣にある有名な洋食屋で旨いものを食い,対面の本屋で立ち読みしたシーンだけが,色褪せた写真として心に残っている.
次に山科と関わったのは,1986年(昭和61年)から愛生会病院の当直医として出向いた時期である.医師免許を得て1年も経たない研修医には,緊張,不安と闘わねばならない試練であり,眠れぬ夜が,当直室の窓から眺める夜明けの町並みを,黄色く眩しくしたものであった. むろん山科とは点と線で繋がっていただけである.
1993年(平成5年),愛生会病院に常勤医として着任した.同院に臨床医としての技術,度量を鍛えて頂きつつ,中核医療機関としての責務を果たそうと懸命であった.病院勤務の14年間を振り返ると,住民の健康を守る手伝いができたと自負しているが,必ずしも山科を体感した時代ではなかったように思う.
2007年(平成19年)竹鼻に開院して以来,多少の変化といえば,山科を五感で意識する装置が作動しだしたのではないか.年末に催される山科区民歩こう会への参加で,周囲の豊かな自然に気づいた事が契機であった.今更ながら疎水沿いの整備された美観や,毘沙門堂の静寂な佇まいへの感銘は言葉に表し難い.晴れた日,山科川沿いに快い風を受けながら自転車を走らせると, 四季折々に桜並木,新緑,きらめく川面,野鳥の出迎え,紅葉や雪をいただく醍醐の山麓などの景観を満喫できる.街に視線を転じると,古代より東国へ通じる重要な回廊として,多くの武将や貴人の足跡に思いをはせる.とりわけ蓮如が中興した本願寺勢力の繁栄を,格式高い民家や社寺名,点在する小高い丘から想像することができよう.最近では,診察場だけでのお付き合いだった患者さんと,街角で挨拶を交わすこともしばしばである.
これからも出会い,発見が続くに相違ない.そして医師会設立50周年の折は,更なる山科の魅力を語れるか,どうか.
H23.9.15
暴風雨旅行
台風12号の記録的な豪雨によって紀伊半島に甚大な被害が伝えられる中,雨にも風にも負けそうな気分で今年の旅行が敢行された.新名神高速道路が一部通行止めになるも,国道1号線をバイパスにして大幅な遅れもなく,名古屋臨海に位置するリニア鉄道館にたどり着いたのだが・・・.途中,伊勢湾岸に沿った高速道は,海上にわたされた橋のようで遮るものがない.暴風が容赦なくバスを左右に揺さぶり,運転手さんが懸命なハンドル操作で姿勢を保とうとする.滝のようにたたきつける雨水が車窓を走り,景色を遮断する.フロントガラスを通して外の様子をうかがうと,川なのか海なのかわからない不気味に溢れる灰色の水面に,バスごと吸い込まれそうである.雨音とは対照的に,車内はお子さんの泣き声以外妙に静かで,少々緊張感に包まれているように感じた.駐車場から鉄道館までの距離は100m余りであろうが,強風で傘が役に立ちそうもない.風雨に飛ばされぬよう声をかけながら,年配の方もお子さんを背負ったお母さんも懸命になって館をめざした.
さて訪問先の感想を書かねばならない.
リニア鉄道館は私の期待どおりに鉄道一色の空気が充満し,日本が誇る科学技術の真髄を,インパクトのある展示物で視覚的に訴えている.特に新幹線の初代0系車両は食堂車が懐かしく,東京出張によく利用していた100系の精悍な先端形状は,洗練されたデザインだと改めて思う. 0系はすでに姿を消し, 100系も引退が決まっているのは寂しく残念である.しかし高度経済成長期の象徴を歴史遺産のように伝えるこの施設があるかぎり,元気のない日本社会に自信と勇気を与え続けるのではないか.
なばなの里,季節のお花畑が綺麗らしい・・・これでお許し下さい(レストハウスにこもっていたもので).
という訳でこの嵐の旅行は忘れ得ぬ強烈な体験を提供してくれました.いつまでも心に残ることが旅の醍醐味ですからね.よい想い出になります.それにしても役員の方々をはじめ参加された皆様,本当にお疲れ様でした.
H22.9.13
みなと神戸:
“暑いですなあ”という季節感ある社交の挨拶が,異常な猛暑で弱った皆さんの虚ろな表情をみると,切迫感のある訴えにきこえてくる.今回は“みなと神戸”という主題の旅で,多少は海風の涼に出会えるかと期待しながら同行した.
バスは意外なほど快調に名神高速道路を走り抜け,右手に迫る六甲山麓を眺めながら灘の白鶴酒造資料館に到着した.なんと言っても試飲で頂いた絞りたて吟醸酒の芳香や爽やかなコクは格別だった.この旨さは醸造技術もさることながら神戸ウォーターの恩恵によることが,案内係りの方の誇らしげな表情をのぞきみることで察せられる.日本の大都市にあって,神戸ほど飲み水が豊かな街はないだろう.
次に“人と防災未来センター”と称する二棟建ての立派な施設に案内された.臨場感あふれる映像を前に,災害の恐ろしさを体験できる仕組みであるが,なにやらどこかのテーマパークに迷い込んだ感覚がなくはなかった.いずれにしても神戸港震災メモリアルパークの崩壊した突堤とともに,防災の意識を保ちつつ阪神淡路大震災で灰燼に帰した街の悲惨な記憶を風化させない手段として評価されるべきである.
立派な施設といえば神戸空港もその一つであるが,建設の意図や現状の利用価値については考えたくない.展望台に上ると眼下の滑走路を旅客機が轟音とともに離陸していった.この“ショー”を目の当たりにすると,どうやら休日に多くの見物客で賑わう市民のスポットとしては輝いている様であった.
少し前半のケチをつけてしまったが,いよいよ“みなと神戸”である.街の象徴として名高いポートタワーと洒落たモザイク広場の間に位置する中突堤の桟橋には,華やかな遊覧船が並んでいる.乗船した帆船風のオーシャンプリンス号は,建造中の巨大タンカーをなめるように湾内を周った後,陽光きらめく大阪湾にでた.最上階のデッキにたつと,酷暑とはいえずいぶん穏やかになった日差しと潮風が心地よく注いでいる.東から六甲山頂に始まる山並みが,摩耶山,再度山から一の谷に至り,明石海峡大橋でもって淡路島につながり,遠く紀淡海峡をへて泉州の山々に連続して眺望できる.大阪湾はこのように袋の中の様な海域であるが,瀬戸内海という回廊の奥座敷として古来より兵庫・堺など沿岸の繁栄を支えて来た.神戸について言えば,ほんの1世紀半ほど前までは人家もまばらな寒村であったが,明治初頭に西洋人が浜辺に居留区を構え,その空気を住民が継承したことで街の祖形ができ,今日大阪と並ぶ大都市に発展した.それ故に京都と違って異国文化を抵抗感なく都市整備に反映させようとする精神が,神戸市民に遺伝しているのであろうか.勝海舟が創設した海軍操練所跡地に立つ碑や,旧居留区の重厚な石造りの建築群を車窓に眺めながら,震災から見事に復興した街の美観がそう思わせてくれるのである.
H21.9.18
伊勢旅行:
京滋に拠点をもつ私どもにとって,三重という土地にはなじみが少ないのではないだろうか.背後に鈴鹿の山塊をいだき,伊勢湾を望んで東に開口する地理的根拠だけでなく,経済的にも名古屋圏内であるから当然であろう.しかし戦国時代末期に近江商人が盛んに峠を越えこの一帯に移り住んだことから,今日の三井財閥など伊勢商人としての原型が形成されたというし,東海道五十三次のルートを見ても近代までは京滋と深い交流があったようである.ともかくも往来の手段としては,最近まで国道1号線という細い血管でつながっていただけであった.今回の旅では“新名神高速道”という大血管のおかげで,心臓から駆出される様に瞬く間に伊勢の地を踏むこととなった.
二見浦には夫婦岩が鎮座する.関西で学童期を過ごした誰もが懐古を共有できる名勝である.記憶の中の夫婦岩は猛々しい荒波に悠然としたシルエットを誇っていたようなのだが,眼前のそれは干潮なのか岩肌に弱々しい波がかかり,とても小さく感じられた.さらには突端に誇らしげに立つウミウが,時折天に向かってあくびをする景観は,なんだか間が抜けたようでもあった.西の一角の堤防沿いに足を運んでみた.まぶたには“浜千代館”など多くの旅館が立ち並ぶ街に,修学旅行生が賑わうセピア色の光景が浮かぶ.古びた旅館の薄汚れた看板を眺めながら,35年という歳月を実感してしまった.
大型観光バスで外宮に続いて内宮に案内された.深い緑に囲まれた五十鈴川で身を清め,砂利道の参道をすすんでいく.ついには古来から流れる日本人の自然崇拝という精神を,神々しい樹間の中に現れた社に感じることができた.教祖も経典もいらない,ただ山河を畏れ敬いその恵みに感謝する無垢な祈りなのでしょう.地球環境に対する関心が高まっている当節,古代の信仰に立ち返ってみるのも良いのではないだろうか.宇治橋(工事中だったが)を渡ると,まるで現世(昔ありましたね,ホーククルーセーダーズの帰ってきた酔っ払いっていう歌謡曲,私のことかな!?)に戻ったような気分になった.おはらい町,おかげ横丁でちょいとお神酒をいただいたり,伊勢うどんの濃い出汁を飲み干したりして,どっぷりと俗世間の空気に浸った.神様に祝福されたような好天の一日が,バスの車窓から眺める夕陽の茜雲で締めくくられた.
H20.12.22
年男 新年の抱負 他への労わり:H21年 山科医師会通報新春号掲載
正月の晴々した気分はゆっくり進む時計の様であるが,季節を感じることもなくまたたく間に年の瀬を迎えるという循環を何年も繰り返してきた.前の年男を披露した折は,自身を若手と勝手に決め込んでいたものの,ふと気づくと敦盛でいう“人間五十年“の域に達しようとしているではないか.なるほど最近は勢い良く酒が飲めなくなったばかりか,膝の痛みで一時歩行困難になるなど大小の身体的異変に見舞われている.無意識に過ぎ去る時間とはかくも恐ろしいものだというのが実感だ.拙文しか書けない私にとっての原稿依頼は,数学問題の解答を求められるように重石としてのしかかる.しかし今回の”新年の抱負“という誠に気高いテーマに臨んで,無限ではない時間を意識するよい契機だと感謝し,襟を正して書こうと居間のパソコンにむかっている.でありながら横のテレビがNHK大河ドラマ篤姫の最終回,英雄が生涯を閉じ行くシーンを映しているのに心が奪われる.西郷や竜馬はもちろん,策謀でもって近代日本国の礎を築いた大久保や内乱回避の一方の当事者である慶喜などは,共通して”私“を捨て”公“に身を投じる情熱と勇気が満ち溢れていたのだとしみじみ思う.日本が誇れるなんと輝かしい時代であっただろう.
さて抱負について書けと言われると心の底から湧き出るような決心は見つからないのだが,一つあげるとすれば“他への労わり”の精神を磨くということであろうか.無論,万事において余裕(優しい強さと置き換えてもいい)を持ち合わせねば容易ではない.例が適当ではないが,ゴルフのラウンドで林に打ち込んだ友人のボールを一緒に探してあげる労りは,自身がナイスショットのフェアウエーキープしている余裕と対をなしているのに相違ない.ゴルフという紳士のスポーツでさえ,自分のプレイで背いっぱいの時もある.
医師会という公を旗印にした活動に,少しでも役立てばという気持ちは高い.しかし現実に充分な奉仕ができていないのは前の理由によるのだろう.新規開院を飛行機の離陸に見立てると,当節そう簡単に天高く上昇できるわけにはいかない.一昨年は離陸直後の墜落かという事態に直面し,幾分修正されたものの今なおダッチロール状態であることは変わらないのである.早く中空でもよいから水平飛行で安定したいのだが・・・.他を労わることは家庭でも職場でも社会でもそれをくるむ空気のように存在するべきだと思う.それには優しい強さを備えるため,日々研鑽を積むことを肝に命じなければならない,この抱負が空言に終わらぬように.
もう一つ大切な抱負に気がついたが,昨夏他界した父の思い出を掘り起こしていくと,今やっておかなくてはならないことが明確となった.私情であるからここで記すのはとりとめもないことで気が引ける.自らの懐の中でじっくり温めてみたい.
H20.11.28
小旅行: H21年 京都医報新春号掲載
新春の随想ということで気楽に筆をとっている.おもえば昨年は容易ならぬ一年であった.勤務医時代には理解しえなかった医院経営に関する様々な障壁,診療スタイルの大幅な転換による戸惑い,混迷する消化器がん検診の実態を直視する立場となった委員会委員長の就任など,多事に亘って体験したことがない波が打ち寄せた.変化の乏しい日常の連続とならぬ様に自らアクセントを課した顛末なのだが,行き詰れば悔いが残ることもある.ここでは現実の葛藤にはふれない.
私には心を爽快にし,日々の活力を生み出す手段を持ち合わせている.それは何か?小旅行である.ここでいう旅とは温泉や観光地などに行って帰ってくるものとは限らない.土地やそこに暮らす人々が醸しだす歴史,風土や文化を感じるアンテナを張っていれば,どこに出向いても誠に興味深く愉快である.そう思うと三条通を東に歩んで軒下に隠れた道標前に立ち止まるのも,道頓堀界隈や奈良町の一角を通り過ぎるのも気分がいい.
先日,気心知れた友人と釣行に出かけた.防波堤で夜を徹して獲物を狙うという少々根性が試される海釣りである.西宮インターから阪神高速を西に進み六甲山の尾根が屏風のように前から迫ってくると,京都を離れるという日常からの開放感をえる.左手にビルの合間から海原が見え隠れすると,内陸に住みついている人種らしく心が躍りだす.回廊のような神戸の街を過ぎ,潮風が心地よい明石港からフェリーで対岸の淡路島に渡る.20世紀のピラミットというべき人工建造物である明石海峡大橋の威容と,上代から船舶が往来した文化の動脈である瀬戸内海の自然がうまくマッチして,この上なく雄大な景観を提供してくれている.潮流がよほど速いのであろう,白波だった海面に小さなプレジャーボートが遊ばれるよう上下に躍っている.陽光きらめく海は西に大きく広がり,家島群島の影が微かに映る.西への憧れは,西方浄土などの思想と切り離しても日本人の精神の根底に潜んでいるのではないか.学生時代にリュックを背負って中国奥地河西回廊を抜け,敦煌の鳴沙山で地平線に続く砂丘を眺めた.“日本人は西からやってきたのだ”など寝言のようにつぶやいていると眼前に島がせまっているのに気づき,フェリーは岩屋港に接岸した.ふと白黒の映像が脳裏によみがえった.父の車で淡路島に乗り込んだ帰りにこの船着場で数時間も待たされたという,遠く40年前の記憶である.当時,関西圏の一大リゾートとして賑わったこの島では,溢れる観光客にとって海を渡る手段の確保に大半のエネルギーを費やしたに違いない.結局乗船を拒否され疲労と怒り覚めやらぬ表情の父が,夜も更けた道を別の港に向かって車をとばした.活況を呈した岩屋の集落も今は人影が少なく,乗船切符売り場で声を荒げた父も昨年他界した.
この島は岩屋神社など殊更に起源の古そうな社が目に付く.往時西方との通路であったからか,なるほど遥か東方には大和に通じる竹之内街道がその山裾を通る二上山が望めるではないか.車は島を横断し,高田屋嘉兵衛ゆかりの都志や慶野松原を横目にみながら目的の漁港に到着した.すでに日没を迎えつつあり,釣りの仕度を急がねばならならい.渓流用の延べ竿に簡単な仕掛けを施し,シラサエビをつけて海に放り込む.しばし何も考えない・・・潮の香り,波音,月と灯台の明かりだけの世界.ずいぶん時がたったようだが,時刻を気にとめない.小さなチヌやカマス,アジ,ガシラ,チャリコ(真鯛の幼魚),そして本命のメバルは少々だったものの退屈しない釣果だ.東の空が白みはじめ,漁船が一隻また一隻と大きなエンジン音をたてて海面を切り裂きながら勇壮に出漁していくころ,睡魔で眠り込んでしまった・・・.
小さな旅の日記はここまでとします.気の向くままに書き綴ったので,ご覧の先生方には少々エネルギーの浪費となりましたが,新春の独り言としてお許しいただきたい.
20.9.11
ゆりかごに微笑む仏様:
近江湖東を旅した.静かな田園の向こうには三上山をはじめ大小の山が島のように配され霞んでいる.大和三山一帯の風景を重ねながら,往時,この地に繰り広げられたドラマに思いをはせた.地図を広げると言うまでもなく近江は日本のへそに位置し,琵琶湖を介した交通の要衝であった.越前に勢力をおいた継体天皇が湖東を南下し,天智天皇が大津に遷都(山科は当時のベッドタウンだったらしい),そして壬申の乱の舞台となった.日本の大航海時代を夢み既存の文化を否定した信長の安土城築城と寺社焼き討ち,そして西方の外様大名に怯えた徳川が最大の防衛拠点として配した井伊の彦根城もこの地である.今の近江は近代国家以前の記憶と痕跡を残しながら静かに時間が流れている.湖東三山の一角である西明寺を訪れた.天台宗の古刹であることから,王城都護の比叡山延暦寺が鬼門の東北に位置するように,やはり京の東北方向に並ぶ湖東三山の意味を考えたりもした.秋の気配には程遠い深いもみじの緑と青空のコントラストが心地よい.緩やかな石段を登ると伽藍が木立の中に悠然とその姿を現した.本堂の内陣は数百年の油煙で艶やかに暗いため,和蝋燭の柔らかな光を感動的に映しだしている.本尊の薬師如来の傍らには日光月光菩薩が優美と言うよりとても愛らしい姿で鎮座している.周囲を鎮護する十二神将は造形的にも躍動感に欠けるようだが,どこかユーモラスで憤怒の気負いがなくリラックスしている.寄り添う仏はみな穏やかな表情で,社寺という我が家で人々を優しく迎え,微笑んでくれているようである.-秘仏・・・の魅力・・・展 会期・・・まで,前売り券1300円・・・.我が家から運び出された仏はガラスケースの中で様々な照明効果で脚色され,冷たい展示室で香も須弥台や友である仏もなく陳列されているのである-.そんなことを考えながら,ここは幸せな仏たちのゆりかごなんだなー,ゆっくりとした時が過ぎていく.貧閑とした山間に静かに佇む社寺の魅力を最大限に引き出してくれた忘れえぬ旅であった.
恩師:学問というのはよくわからない.私の性に向いているとも思わないし,生物の授業で習った走行性,走化性の蛾やゾウリムシのように生々しい現実の刺激が活動の着火となってきたので,理論や推論の世界など住み心地が悪くてしょうがない.だから平成5年に大学から愛生会山科病院に着任した当初は開放感に浸っていた!?結果としてカセットテープを聴くような日常の繰り返しが,医療人としての発展を阻み,安易,安全な方へと逃避していったように思う.そんな頃,この生ぬるい雰囲気を槌と鋼でたたき割るような人物が現れた.こおり内科医院(元愛生会山科病院副院長) 郡 大裕先生である.この人物の大物ぶり語るには,個人のホームページの記載ではあまりに膨大で恐れ多いことではあるが,その片鱗のエピソード.ある学術集会で私がパンチの効かない発表をしたあげく,関東の有名な先生に批判的指摘を受けた.会の終了後,同席していた共同演者の郡先生にさかんにお詫びめいた挨拶をされていた,お弟子にケチをつけてしまったと言うが,はー情けない私.全国規模の学会で鞄持ちで同伴した際も,高名な大学教授が何人も向こうから挨拶に来るではないか!つまり消化器病学の専門と名乗れる医者で郡先生を知らない者は”モグリ”といわれる程高名なのである.という訳で,尻を叩かれた覚えはないが,あれよあれよと学術の世界に引き込まれ,周りにお世辞のような評価も加わり,どんどん楽しくなっていった.巧みな指導者であることが理解できた.それだけでなく,日常臨床で困ったことがあれば何でも相談に乗ってくれたので,のびのびと診療に従事することができた.要するに親分肌なのである.今,こうして胸を張って消化器の正当な??専門医と名乗れるのは,決して自分自身の力だけではないと思っている.そして巨塔といえば福本内科医院 福本圭志先生.私が京都府立医大6回生の時,先生は当時第一内科講師でグループ臨床実習も担当されていた.”さーこのレントゲンフイルムで正確な診断つけたら,鳥勢の焼き鳥屋に連れて行ってやる!”と.みんな燃えて,乏しい知恵絞って考えたけど,”うーん惜しいなあ,鳥勢の前まで連れて行ってやる” 全員”・・・・”. それからどういう訳か,いろいろな臨床現場で福本先生式内視鏡テクニックを教わる機会を得,さらには平成13年から14年に山科で実施された胃がん検診の新しい事業に声をかけていただき,そして今回の開業の際も手厚い支援を頂いた.
-素晴らしい人物との出会いが重要なのですね- こう言える自分は幸せなのでしょう. (このような勝手な掲載で,郡,福本先生にお叱りを受けないか心配です.)